Takechang の冗談半分 #526  94/ 4/23 10:15

プータロー日記 103>
花見

長野にも若干遅い春がやって来て,さくらの季節になった。でもって,言わずと知れた花見宴会である。

プータの場合,会社組織に拘束されていない利点?であちこちの団体?に首を突っ込んでいるので,花見もまたあちこちでやった。

今週は3回あった。さすがに春がちょっと遅い長野でも,里のさくらは今週で終わり,GWまでもつのは高遠などになると思う。

でもって今日書きたいのはさくらの事ではなく,このところ起きている公園の異変についてである。

何年かまえからその兆しはあったと思うのだが,今年は行ったすべてのところでそうなっていた事だ。

つまり,ごみ箱がどこにもないのである。大体公園と言えば荒いアミの丸いのとか,四角い鉄の箱とか,ごみ箱が置いてあるのがフツーだった。

それがこのところ,ごみ箱というものを撤去してしまうところが目立って増えているように思う。理由はと言えば,なななんと「ゴミが溜まるから。」

本来ゴミを入れるためのゴミ箱をなくす理由にゴミがたまるからとはこれいかに? 奇怪な話である。

しかし,話を聞いてみると結構納得してしまう部分があったから恐ろしい。つまり,公園に置いてあるゴミ箱にはゴミを入れられては困るということなのである。公園のイメージとしてなんとなくごみ箱があるというイメージがあるから(伝統的に)設置してはあったものの,実はだれもゴミを集める人がいないのである。

田舎で公園を管理している地方自治体などでは,建設時にゴミ箱を計画する部署はあっても,そこのゴミ集めというのは予算化されていないようなのである。

そのため,滅多に公園を利用する人のいない時代は良かったが(これも人の税金で使いもしないものを作りやがって,ということだが),昨今田舎でも週休2日は当たり前,でもお給金は増えないから勢いタダですむ公園利用者が増え,それに伴ってゴミが出るようになると,もういけない。

集めないで出る一方だから,かくして「ごみ箱があると却って公園がよごれる」事態になってしまったのである。

ということで出た結論は,ごみ箱を無くしてしまえばゴミは減る,という事だった。実際,それでもゴミを捨てる(つまりヤタラなところに捨ててしまう)ほどの悪党はあまりいないらしくて,確かにそれなりに公園の美観は保たれているようにも見える。

結局出たゴミは持ち帰ったりしているのであろう。

ただ,よく考えてみると,この話はおかしな事だ。本来捨てるためにある場所が実は捨ててはいけない?場所だったというタワケたことだ。

もう一つこれに類した話では,「閉鎖されている公園のトイレ」というのがある。これも,実は閉鎖する理由が「汚れるから。」

これもトイレはあっても掃除する人がいないからである。日本の公衆トイレのきたなさというのはどこにいってもひどいものがあるが,高速道路などきちんと管理されてるところはやはりそれなりにきちんとしている。こういうところは使用すればよごれて当たり前,ごみ箱も使えば溜まってあたりまえ。もともとそういうものなのに,管理する視点が抜けている。

使っていく管理も含めたものが施設であるのに,そうできない我々の社会は,発想が貧しいのか,資金が貧しいのか,用法が貧しいのか。

いったいなんなんだ,と思ってしまう。ただ,これに類したことはそういえばあちこちにあるようだ。ファイバー回線を引きさえすればいい,衛星を上げさえすればいい,パソコンを買いさえすればいい,といったたぐい。

これが日本人の得意わざなのだとすればちょっとあまりに寂しいものがある。

竹中 俊

Takechang の冗談半分 #526  94/ 4/23 10:15