Takechang の冗談半分 2 #07 | 1996/06/02 00:17 |
カマラ,写欲,というのは荒木経惟さんの造語だと思う。これは非常に的を射た言い回しだと思って,最近感心している。
「あ,これだ」と思って撮るときの感じはたしかに写欲である。それに被写体によっては,これはやはりカマラだ。きたっ!という瞬間は確かにある。ま,だからといって作品的にいいかどうかというのはまた別の話だってのが凡人であるが。
一般に写真の場合は,いいかわるいかというのは一つは技術依存で,もう一つは機材依存であると思う。とくに機材の要素というものは案外と大きい。弘法は筆を選ばず,というが,たしかに荒木さんなんかは,なんでもないコンパクトカメラで写したものでけっこういくつも写真集を作っている。
でも,ごく初期の荒木さんは,たとえコピーの写真集でもカメラはそれなりのもので撮ったヤツだったとおもう。つまりこういうコンパクトカメラの仕事は名前が付いてきてはじめてできる種類のもので,一般には写真集になる写真は,たとえばハッセルで撮らねば,といったような所がある。
気分以外に現実の問題として,安物のレンズとまともなレンズでは仕上がりが違うということに気づいてガクゼン,というか,がっかりする事もある。
僕はお師匠について写真をならうようになって丸3年になるが,でもだいたい打率はせいぜい1割である。打率というのは,一本撮って,そのうちどのくらいが,お師匠が「まあまあ」と言ってくれるかだ(「これはいいぞ」と言ってもらえるのは,年に何枚もない)。
いっぽうで,僕の2倍から3倍ぐらいの打率で「まあまあ」を連発する人がいる。最初はこれはウデの問題で仕方がない,と思っていたのだが,ある日一緒にロケにでたおりにレンズを貸してもらったのである。
この時のカメラは EOS で,彼女は本体も EOS1RS,レンズは 28-80mm f2.8L と 80-200mm f2.8L だった。
僕のカメラは EOS620。グリップ部がレリーズコネクタが無い物に変えられておりそのために2年ぐらい前で2万円だった。もちろんレリーズコネクタは改造して使えるようにしてある。レンズは,このところの財政難で EOS5 と共に SIGMA の 28-70mm f2.8 を売ってしまったから,トキナーの 80-200mm f2.8 しか持っていない。そこで,ちょっと短いタマが欲しかったので,EF28-80 を借りたのである。
これは,ファインダを見た瞬間にもう「うっ」となってしまう。ファインダ像のシャープさがまるで違うのである。スペックとしては先日まで見慣れた SIGMA のと変わらないのだが,現実にファインダを通して見える画像はとても同じスペックのレンズと思えない(あるいは,これが同じスペックというなら,スペックなんぞはレンズを語るのに意味がない)のである。あと,僕はシグマやトキナーの AF は遅い上に精度が悪いのでほとんど使っておらず,マニュアル合わせを常用している(そのため,最近では AF カメラからマニュアルの FD 系に主力がシフトしつある)のだが,このキヤノンレンズはすごいのである。
音がしない。シグマだとじっこーじっこーじーううううという感じなのだが,これはまったく無音で,かつシャッターを押した瞬間にフォーカスが来ている。僕のカメラのピントが合いにくいのはカメラが初期の EOS620 だからと思っていたのだが,このレンズを使えばそんなことはない。速い,ウマい(けど高いのだ)。
あと,AF で合わせたものをちょっとポイントを変えたいとか,ちょっとピントの山が気持ちちがうなんてとき,シグマやトキナーだとマニュアルに落とさなければいけないが,このレンズは USM なので,AF のままマニュアルで追調整ができるのである。
すごい。が値段もすごい。キヤノン1本でシグマなら3本買ってもお釣りでステーキが3回食える。
ま,とにかく,これで撮影した時はなんと僕の打率が3割に上がった。野球ならイチローのバットを借りれば3割打てるということはないと思うので,つまり写真における機材の依存度は非常に大きいということだ。
ヒガミでいえば,篠山紀信さんは実家がオカネモチで日芸の学生の時にはすでにフツーの写真家では太刀打ちできない機材を持っていたということなので,やっぱしなー,である。
しかし,技術のあるウマいヒトの場合は,僕のシグマのようなのでも,そこそこの写真は撮ってしまう。その辺が技術というものだが,でも,このあたりはかけ算である。要するに機材×技術+運=結果ということで,何で結果を出そうが評価は結果のみなのであるから,そこに至るプロセスなんぞはカンケーない。カネモチも実力のうちなのである。
あと,それ以外にいい仕事には超自然?というような要素のある事もたしかだ。自分の例では産業用のソフトを書いていたときなんかそういう事があった。
最初実力なりで書いて行くのだが,どうしても実現できない機能がでたりする。あるいは,きちんと動かない。時には1週間もできずに苦しんだりする。徹夜3連チャンで,息も絶え絶えだ。
天啓とでもういべきものがくるときがあるのはそれからだ。「あっ」という瞬間があって,なんというかひらめくのである。実力ではない,ひらめきだ。ひらめく一瞬まえまではとてもできないと思っていた仕事が一瞬のちには,できたっということになる。こういうものが来ないときは,やはりいい仕事はできない。そして,ひらめきで得たのは次からは実力になる。こうやってステップを上っていくようである。
芸術でいえば,よく「神を見た」とかいうのがこういうことなんだろうと思う。
写欲は少しひらめきに近いが,でも目の前の被写体に欲情しているだけで,僕の場合は,結果を見ていないし見えていない。
僕に写真で「神を見る」時がくるのかどうか。まったくそういうものの無いヒトはやはりその分野では大した事がないし,よく宗教者が苦しい修行をするように,天啓というものはそう簡単にはやってこないもののようである。
神という言葉で表されるものはどうもそういう事のようなのである。
Takechang の冗談半分 2 #07 | 1996/06/02 00:17 |