Takechang の冗談半分 #263  92/12/26 22:38

河口湖自動車博物館にいく

この4年間,家と仕事場の間の往復には富士五湖道路を通っているが,いつも「暁の超特急」なので寄り道したことがない。

今回は久しぶりに昼間帰ったついでに,気になっていた自動車博物館に寄ってみることにした。

富士五湖道路を出て右に曲がると河口湖方面,左に曲がると富士山方面なのだが,ここに「← 河口湖自動車博物館」という看板が立っていて,昨年のCOMDEXでインペリアル・ホテルの自動車博物館を見て以来,日本の自動車博物館ってどうなのだろうと気になっていたのである。

林の中の道を約5km程走って交差点を右に曲がる。

そこからまたしばらく走ると左側にひっそりと博物館があった。

河口湖自動車博物館

たいして広くもない駐車場だが,セドリックのバンが1台,旧プレイリーが1台いるだけだ。プレイリーの方はCIBIEとかのステッカーはりまくりだから博物館の車かもしれない。

確かめもせずにやってきたから,休みかな,一瞬おもったが,そうでもないらしい,受け付けのところにOPENの札が見えている。

入り口を入るといきなりブガッティかなんかが置いてある。

「触らないで下さい」と書いてはあるが,そこになんか若い女がのっている。

「いらっしゃいませー」と言って降りてきたところを見るとここの人らしい。

「おひとりさまですかああ。1000円いただきまあす。」やっぱりここの人だ。客に触るなつっても,これじゃああんまり効果ないのでは?

しかし,なんかまるでスキーにでも行きそうな厚着をしている。

なんでかなーとちょっと気になったがとにかく,右の方から見てください,ということで正面右側の展示室に入った。

ロビーにばあさんと嫁か娘か?という年齢の2人連れがいたが,展示室には人影がない。

入った途端に厚着の意味が分かった。寒い。どうも客が少ないから暖房を切っているらしく,冷えこんだコンクリートの寒さがもろに伝わってくる(ロビーには一応ストーブが入っていた)。

ふと入り口で貰ったパンフレットを見ると開館時間9:00〜5:00,休館日木曜日1〜3月全日となっている。そうか,ここは冬眠に入る寸前なんだ。

思いたってやってきてよかった,これを逃したらまた春まで見られないところだった。

さて,展示品の一番最初は1886年ベンツの1号車だ。

インペリアル・ホテルの博物館もそうだった。これを最初に出さないと,自動車博物館たるものマズイのだろう。

以後の歴史でいうと,ここは歴史部門とレーシングカー部門に分かれていることもあり,かなり展示品が違っている。日本の場合,1900年頃にはまだ車が入ってきていなかったこともあって,かなり時代が飛んでいるようだ。

1902年のプジョーT37(フランス),この車は世界初のプロペラシャフトを使った駆動の車で,デファレンシャル,クラッチ,ギアボックス,ブレーキなど今日の車の基本型を作った車だ。

次というとフォードT型1912年になる。

19年間に全部で1500万台生産された初の量産車である。日本では乗用車というより,これの変形で後部に向かい合わせのベンチシートを付けたバス仕様が「円太郎バス」として使われていたらしい。

これ以後がオーナーの好みというより,日本市場の好み?でヨーロッパ車が多い。

1926 ブガッティT40(フランス)4気筒1489cc 60HP。

1931 オースチン7(英国)4気筒750cc 7HP。
この車の前に立ったとき,「あれ,どこかで見た事のある車だな」と思った。

昔の記憶。僕が子供の頃,母に手を引かれて通った製糸工場の貯木場に置かれていた,あのタイヤの潰れた黒い車。重箱のような,真っ黒の四角い車体。

あの車ってずっと,くろがねか何かの日本製だと思っていたけれど,この車ではないだろうか(くろがねは,どうもリヤのラインが違うような気がしていた)。

僕が小学生になるころにはいつの間にか取り除かれて,その後ホテル用地になってしまったのでいまでは確かめようもないけど,通るたびに母に「あれがほしい!」とワメいていた車である。ここにあるのはぴかぴかにレストアップされていて,あの車はさびきっていたけどどうやら間違いなさそうな感じがする。

説明書きを見ると,
英国で作られたもっともポピュラーな車はこのセブンである。T型フォード同様世界各地に輸出され,375000台作られた。日本でもシャーシーのみ輸入して,ボディはヤナセで作った。この車は1931年に輸入された英国製で,当時この車を買うことの出来た人は,お医者さんが多く「ドクターカー」とも呼ばれた。
となっている。

うーん,なんとなく日本製っぽく見えたのはヤナセで架装されたボディだったからかもしれないし,僕があの道を通ったのは,扁桃腺をはらしての医者通いだった。

なんとなく状況証拠?としてはますますあやしい。そういえばこの車はNHKでやっていた「名探偵ポアロ」にも警察車などとしてよく出て来たような気もする。

あの時はとくにピンとくるものがなかったけど,こうして立体的に実物をみると,どうしてもあの車のように思える。

なんだか,初恋の人に出会ったという程ではないけれど,初めての気に入った車にまた会ったような気がしてすごくうれしかった。

さて,先を続けると,
1933 ライレー ケストレル 1089cc 6気筒OHV 29HP。
今,三菱が世界最少の6気筒とかいって1600ccを出しているが,こんな昔にもっと小さい,リッターカーの6気筒があったのだ。

1934 シトロエン7CV 1678cc 4気筒 36HP。
トラクシオン・アバン,即ち世界最初のFF(前輪駆動)車である。駆動と操舵を1軸で行うことは難しくて,日本車がほぼFF化したのはそんなに昔のことではない。ジャンギャバンなどのギャング映画に必ず使われるとなっている。

たぶん,昔の映画がモノクロ映画だったせいではないだろうか,なんとなく黒い車のように思っていたけど,この車は明るいグリーンに塗装されていた。

1937 メルセデス 540K 5400cc 8気筒 180HPスーパーチャージャー付き。
ナチス・ドイツの威信をかけた車。重量2.7tの巨体を170km/hまでひっぱった。

あとは戦後になって(戦後というのは第二次世界大戦のことです),
1947 アルファロメオ6C(イタリア)2443cc 6気筒DOHC 95HP。
ギア工房の作品でいかにもイタリアという明るいブルーに塗られている。

1951 MG TD ミゼット 1250cc 4気筒 54HP。
これはオープンのミニスポーツカー。日本ではミゼットといってもダイハツのミニ3輪トラックのことだった時代だ(これは,映画稲村ジェーンにも使われたし,東南アジアに行くとまだ,タクシーなどとして現役だということだから,見た事のある人も多いと思う)。

1952 ロールスロイス シルバーレイス 6気筒 4566cc。
ロールスは伝統的に出力を公表しない。駐日英国大使の公用車だった車。

1954 ベンツ 300SL 6気筒 215HP。
当時すでに最高速250km/hを記録した。いま,トヨタ・セラとかマツダ AZ1とかが採用するガルウイングという上に開くドアがついている。

1959 オースチン ミニ。
そう,いまでも走っているあのミニだ。

1967 フェラーリ 275GTB V12気筒 3286cc 300HP。

1966 アストンマーチン DB6(英国) 3995cc DOHC6気筒 280HP。

1974 キャデラックエルドラド コンバーチブル(米)V8気筒 8194cc 210HP。
珍しくアメ車だ。しかし,史上最大の前輪駆動のオープンカーである。

1978 フィアット131アバルト(イタリア)DOHC4気筒 1995cc 140HP。
ラリーなどで活躍したモデル。このぐらいからは僕も当時の自動車雑誌で見たことがある。

1982 ランチア 037(イタリア)DOHC4気筒 1995cc。
これもラリーで活躍した車。

1984 ランボルギーニ カウンタック V12 DOHC 4754cc。
いわゆるスーパーカーブームの時の1台。

1986 フェラーリ テスタロッサ 水平対向12 DOHC 4924cc 390HP。

これで,1886年から1986年まで,自動車100年の歴史というわけだ。

特徴的なことにお気付きになっただろうか。

そう,日本製の車はただの1台もないということ。いまや世界の自動車大国日本の自動車博物館にして,日本車が1台もない。

遅くても1970年ぐらいには日本はかなり大きい自動車生産国になっていたはず,あとの方にでも出てきてもよさそうなものではないか。

なぜないか。オーナーの好みとかいうこともあるかもしれないけれど,僕はこれはこういう事ではないか,と思った。

つまり,日本車はその均質性,つまり不良品がないことで大衆的な支持を得て台数を増やしたけれど,究極としての性能そのものではあまり見るところがなかった。

それがために,生産国日本の博物館でも記念として保存する価値のあるものは1つもないのではないか。

ここにある,記念すべき車達の技術を数年後,数十年後に安いコストで均質に製造してシェアを伸ばしていく。

均質に作れる,その事自体たしかにすごいことではある。しかも,マネといっても単なるマネで創造性ヌキでは出来ることではない。

それはそれで大したことなのだろうとは思う。僕だって,その均質性を追求する日本企業の勤め人だ。

しかし,その陰で自動車の基本型を築いた英国やフランスやイタリアの企業があいついで廃業に追い込まれていった(もちろん,いまなお気をはく大企業も少なくない)事を思うと,当然先方は面白くなかろう。

いってみればこの産業のやりくちは,こないだ日経産業新聞に出ていた表現であるが,「道場破りの経営」であって,他人の切り開いた市場を力ずくで奪い取るやり方である。やぶった方は鼻高々でも,破られた方にとってはたまったものではない。

(つづく)

Takechang の冗談半分 #263  92/12/26 22:38